創業者 長谷川泰示郎 台東区池之端の長谷川興産事務所にて
創業者である長谷川泰示郎(大正6年生まれ)は、大東亜戦争から帰還した昭和20年の年末12月に、東京都台東区池之端に有限会社長谷川興産を興します。
当時の東京は焼け野原で、建築資材が不足していたことから、東京近郊の鉄工所から鉄鋼材料を買い入れ、建築現場に納める商売を仲間とともに始めたのでした。最初は鋼管やH鋼などの規格物を流通させる単純な商売でしたが、建築現場に納めた鋼材が現場で溶断・加工されて組み立てられるのを見て、必要な加工を鉄工所で施した上で現場に輸送することを思い立ちます。
建設現場から青焼きの図面を持ち帰り、必要な部材と加工を割り出して鉄工所に指示し、溶断や穿孔などの加工を施した建築材料を現場に納める商売を始めると、その方式はすぐに広まりました。
この時期に、のちに大手ゼネコンに発展する建設会社や大手鉄工所、運送会社との関係性を築いたことが、次に取り組むことになる橋梁やトンネル工事などの土木建設に関わるきっかけとなります。
昭和24年に池之端の事務所を引き払い、豊島区巣鴨に事務所・倉庫を取得して移転します。この前後に、建設会社からの依頼で橋梁用の高強度ワイヤの取り扱いを開始します。戦後復興期の本格的な道路建設の波に乗り、鉄骨やワイヤの卸売事業は、ビル等の建築物から道路や橋などの土木建造物へと主戦場を変えていきます。
昭和33年10月、世紀の鉄骨建築である東京タワーが完成した時、泰示郎はその建設に関われなかったことを非常に悔しがったそうです。このことがきっかけとなり、鉄塔建設用の資材を取り扱う事業への進出を決めます。当時は鉄塔用の鉄骨の規格がまちまちで、鉄工所は個別受注生産に対応する必要がありました。長谷川興産は鉄塔の専門家に依頼して鉄塔用鉄骨の規格を定め、販売を開始します。これを機に、東京近郊の鉄工所の組織化にも取り組み、生産能力は高いけれど営業能力を持たない鉄工所の営業機能を長谷川興産が担う分業体制が確立されていきました。
豊島区巣鴨に事務所を取得。男性は営業、女性は管理業務を担当
昭和40年、長谷川興産創立20周年の慰安旅行(三重県伊勢市)
昭和35年、東京都下での土木建設の需要に応えるために多摩営業所(現在の西東京営業所)を開設。翌昭和36年には兵庫県尼崎市に神戸営業所(現在の関西統括本部)を開設します。関西進出の目的は、名神高速道路の建設に関わることです。
この頃から全国に支店営業所を設けることを構想し、昭和41年には静岡県浜松市に中部営業所、大阪市内に大阪営業所を開設します。他にも、社員1名のアパートを拠点とした小さな営業所が複数立ち上がりますが、昭和48年に起こったオイルショックで一時業績が低迷した際に統廃合しています。また、鉄塔や橋梁、ビル鉄骨で分かれていた事業部も統合し、営業本部が統括する体制を敷いてスリム化しました。
昭和40年代は土木建設の波に乗って、日本の発展とともに長谷川興産も発展の一途を辿った時代でした。昭和40年代後半には輸出事業部を立ち上げ、鉄骨やワイヤの輸出事業を始めます。昭和50年に茨城県の鹿島港に輸出用ヤードを確保し、主にアジア向けの加工済み鉄鋼材料を出荷しています。
昭和50年代には北海道営業所、東北営業所、福岡支店、中四国営業所を加えて現在の支店営業所体制が完成します。昭和53年に開設した東北営業所にはダム建設に携わっていた技師が入社し、ダム建設の際に個別に設計されていた水門等の鉄鋼建造物の標準化に着手します。
泰示郎は全国の支店営業所にダム建設にアプローチするよう指示を出しますが、専門性が高く設計の知識もいることから、営業部隊は苦戦を強いられます。そこで、昭和55年、本社営業部内に構造設計課を新設し、設計技師を採用して鉄鋼建造物の基本設計・詳細設計・構造計算を担当させました。設計技師であっても営業マンの一人であるという泰示郎の強い思いから、設計課長の加藤をはじめ5名の設計技師は全国を飛び回り、時には客先でドラフターを借りて徹夜で設計図書を仕上げてくるなど、長谷川興産の営業部隊と連携して大活躍しました。
しかしながらダム建設に関与できたのは東北営業所・北海道営業所の2拠点のみで、関東以西では主に橋梁や鉄塔の構造設計に携わることで売上シェア拡大に貢献したのでした。また、中四国営業所では金属製の桟橋の設計・製造案件を数多く取り扱ってきたことから、構造設計課は浮桟橋の設計にも強みを発揮するようになりました。
このように全国の仲間たちが創意工夫でそれぞれの強みを発揮して社業の発展に寄与してくれることを泰示郎は歓迎しました。
昭和55年(左)加藤設計技師、(中央)泰示郎、(右)濱田営業本部長
中国大連の営業所を訪問、中央は大連営業所初代所長の平井氏
国内の営業体制が整うと海外攻勢に出ました。これまでの海外事業部は日本の建設会社の海外展開に追従して取扱商品を輸出していましたが、中国大連に初の海外営業所を設けて営業を開始します。土木建造物の需要が旺盛だった大連の営業所が成功すると、台湾、シンガポール、マレーシアにも現地人脈をつくり、順次営業所を開設します。
昭和60年代から平成初期にかけては海外事業に集中投資をした時期です。現地での人脈を構築し、現地の鉄工所を指導して製品を供給させる現地完結型のビジネスを創り上げていきました。
最盛期には4拠点を擁していた海外事業ですが、バブル崩壊の影響が色濃くなった平成3年から4年にかけて、すべての海外営業所を現地社員に譲り渡します。海外では、現地完結型のビジネスを創り上げて現地に残してくる仕事を約7年間かけてやったことになります。これが泰示郎が手がけた最後の仕事となります。
平成4年4月、73歳になった泰示郎は後継者長谷川淳久に全権を譲り、引退しました。
昭和復興と共に発展してきた長谷川興産は次世代の成長サイクルに入ります。国内事業の再編として、平成4年当時「東日本営業統括部」と「西日本営業統括部」に分かれていた営業体制を2年かけて一本化し、本社営業本部直轄としました。それに伴い、支店営業所は整理統合して7拠点に集約し、構造設計課は営業部から切り離して事業企画部を設置しました。平成10年ごろにはほぼ現在の組織形態が完成します。
同時進行で、これまで緩やかな協力関係にあった取引先と株の持ち合いを進めていきました。橋梁や鉄塔を得意とする土木施工会社「宮崎土木建設」、大型加工設備を持つ鉄工所「久保田鉄工」、長尺物の鉄鋼材料や重量物を運搬する「小山運送」、橋梁の構造設計を手がける「河井構造設計事務所」、クレーンなどの重機を運用する「末廣重機」など、建設資材の卸売事業に関連する様々な企業への経営支援を目的とした株式交換を進めていきました。
平成15年、グループ企業を統括する持ち株会社、長谷川興産ホールティングスを設立し、中核企業となる長谷川興産を中心とした建設企業集団を形成しました。長谷川興産の経営実務を通して次世代経営者を育成し、グループ各社に経営感覚のある人材を送り込む構想を立て、実現しています。当初からの方針で、経営参画はするものの完全子会社にはせず、グループ各社の経営の自立性が保てる仕組みを取っています。これは泰示郎が海外事業に対して取った方針と同じで、いずれグループ各社が株の持ち合いを解消して完全に自立できるよう支援の姿勢で関わっているのです。
長谷川興産組織図(令和6年3月現在)
長谷川興産グループ企業(令和6年3月現在)
長谷川興産グループ企業となることで経営体制を刷新し、様々な経営課題を克服した上で、グループから独立する企業もあります。平成20年には大型自動車整備の「株式会社相馬自動車整備」が、平成23年には工業用モーター製造の「株式会社明川動力機工」が、長谷川興産ホールティングスから自社株を買い戻し、グループ各社との協力関係を維持しながらも独自の経営路線で成功をおさめています。
令和元年5月1日、長谷川淳久が引退し後継者として長谷川泰啓が新社長に就任します。3代目の方針として、グループ各社の人材育成機能を最大限に強化し、グローバリズムに対して日本型経営を貫徹できる経営人材を100人以上輩出することを掲げています。
泰啓社長の考える日本型経営の要諦は、「関係者や地域に対する思いやりと配慮」「家族的な経営で長く安心して働ける環境の提供」「短期的な利益よりも長期的な恩恵を優先する姿勢」の3点です。
企業が生涯をかけて人財を育てる終身雇用の考え方、業績評価による給与制度とは別に役職を定めた年功序列に近い昇進制度、家族的な職場環境を創造し地域とも密接に関わっていく姿勢、すべての物事を最低でも100年単位で考えることなどを基本理念とした経営者育成を、グループ各社がそれぞれの事業を通じて行うことがグループのミッションでありビジョンであり、行動指針でもあります。
昭和20年に創業した長谷川興産は2025年に創立80年を迎えます。100周年を迎えるまでに100名の日本型経営を貫徹できる経営者を育て上げ、10000人以上の社員に、この日本型経営の理念を浸透させる構想を掲げています。
文責:経営計画室
©️2022 Hasegawa Kousan Group